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2011年5月31日 (火)

‟故郷の回想・日本の阿片王”

福井村の罌粟(けし)の栽培。

北摂の山村である三島郡福井村が私の故郷です。簡単に村の歴史をお話いたしましょう。

Photo 勝尾寺川を隔てて、中川原村の北に位置。村の中央を佐保川が南流、北方に国見山と呼ばれる福井山があります。地形は南に緩やかに傾斜。亀山街道が通り街道沿いに集落を形成しています。                  

中世には 近衛家領「福井庄」があった。佐保川の東岸にある「福井城跡」は建武元年(1334)に楠正成が築いたと伝えられています。

「摂津誌」によると福井村の特産に、犂・鍋・煙草があり、江戸時代中頃「甚右衛門」なる人物が当村で初めて「独活」(うど)・の栽培を手掛け、彼の叔父の「治平」は大坂道修町で薬種商を営み、福井村で「罌粟」(けし)を試植、阿片製造を始めた、それが福井村での罌粟(けし)栽培の始まりです。

Photo_2福井村は罌粟栽培のメッカ”

私の小学校の同窓生の祖父で「日本の阿片王」と云われ、私も子供の頃よく逢って顔も覚えている人。その人の名が「二反長音蔵氏」です。

二反長音蔵氏(1875~1950)は一生を掛けて罌粟(けし)栽培の普及に努めた事から「功労者」として表彰されています。

私が育った福井村(現茨木市)では、江戸時代から罌粟(けし)が栽培されていてその蓄積の上に「音蔵氏」はさらに創意と工夫を発揮して罌粟(けし)栽培に対して誰にも負けないだけの技術水準を創りだしました。

Photo_5 私の 生家でも稲(米)の裏作として約5反(1500坪)の田んぼに罌粟(けし)を栽培して、一家総出でその採取作業に努めた記憶があります。当然私も小学生の時に手伝わされました。Photo_6 さて、罌粟(あへん)の採取はどの様にして行われたのか、簡単に書き込んで見ましょう。

けしの花が散ると写真の様に「けし坊主」(がっぽ)が育ちます。花一つの坊主一つ、特に大きくなるように改良(福井種)されています。

20~30㎝間隔に1m~1,5m位に育ちます。

Photo_7 その、けし坊主に右の写真の道具で坊主に縦に傷を2本切りつけます、その傷より出てくる液(やに)を剃刀の様な、ナイフ形の道具で採取して、腰に付けたコップに入れて集めます。

Photo_8 集めた液(やに)を家に持ち帰りそれからが又大変な仕事があります。その液(やに)を竹の皮にへらで伸ばしそれを、一枚ずつ乾燥機に入れて乾燥させます。

数日後、乾燥した液(やに)は真っ黒なせんべいの様になります。その後薬研(やげん)を用いて粉末にして、大きめのブリキ缶に密封して、役場に納入いたします。そして、その代価を得るのが半年間(裏作)の仕事なのです。種をまいて、間引いて、肥料をやって、草引きをして、・・・・・最後に罌粟坊主(がっぽ)を乾燥して木槌で割り中から「けしの実」を取り出してそれをお菓子問屋に出荷するなど大変な苦労もありました。

Photo_9 出荷した阿片は主に日本陸軍の薬「モルヒネ」の原料になったと聞かされています。

左図の様に「ヘロイン」の麻薬などいろいろと用途があった様です。

現在は当然「罌粟の花」の栽培も禁止されています。しかし日本でも過去においてはこんな罌粟(けし)栽培も行われていたのです。罌粟(けし)栽培の事を何かの資料で発表したところ、かなりの方が興味をお持ちでしたので、今回このブログに‟故郷の回想”として書き込んで見ました。

    阿片の事が参考になればと思っています。

Photo_12   

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コメント

ありがとうございます。歴史の勉強になりました。

投稿: ネットサーファー | 2016年12月 9日 (金) 20時05分

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